ビープラウド社長のブログ

株式会社ビープラウドの社長が、日々の思いなどを綴っていきます。

なぜ学ぶのか〜学びで生まれる価値

年末年始休暇に入り、通常より学びの時間を確保することができそうです。そこで、この機会に「人はそもそもなぜ学ぶのか」というテーマについて考えてみることにしました。

学びを通じて成長し、自分を創ることは人の根源的な欲求

私が子供の頃、文字を読めるようになったり計算ができるようになったりといった一つ一つの成長に喜びを感じたことを今でも鮮明に覚えています。学びを通じて成長することは、自分自身を創ることであり、創造の喜びをもたらします。この経験から、私は「学びを通じた成長、自己創造」は、人間の本質的で根源的な欲求だと感じています。

学びへの抵抗感と忌避

しかし、やがて「テストのため」「進級・進学のため」といった外的な圧力により勉強するようになると、徐々に学びに対する抵抗感や義務感が生まれます。特に、自分の好きなこと(スポーツや趣味、遊びなど)を犠牲にするフラストレーションは大きいものです。確かにテストで良い成績を取ったときの達成感はありますが、私自身は勉強への抵抗感、義務感が勝っていました。この段階で「学ぶこと」が苦痛だと感じると、その後の人生で無意識レベルで学習を避ける傾向に陥る人も少なくないでしょう。

なりたい自分になるための学びにシフトする

学びへの抵抗感や忌避が生まれたとしても、多くの人は「進学や就職のために必要だ」という理由で勉強という形の学びを続けます。就職を控えた学生や社会人は仕事で必要とされる技術や知識を、緊急感を持って学びます。

一方で「なりたい自分になるために学ぶ」という動機は「生きるために学ぶ」とは異なります。外発的動機に基づく「生きるための学び」と対照的に、内発的な動機に根ざしています。生きるための焦燥感に駆られて学ぶ時期も、自分の生きる力をつけるのに役立ちます。しかし、あるタイミングで「なりたい自分になるために学ぶ」にシフトしていくことが、自分の人生を主体的に生きるために必要ではないでしょうか。

自らを社会に活かすために学ぶ

安岡正篤*1氏は「人は何のために学ぶのか」ということについて以下のようなことを述べています。

人は自分を創るために学ぶのだ。そして、人生のあらゆる艱難辛苦にあっても動じないように、自分をおさめていく。自分を創るのは利己のためではない。世のため人のために自分を役立てるためである。自分を役立てるには、自己の徳を大成し、自己の才能・能力を練磨、向上させていかねばならない。それが学の本質である。成徳達材*2することによって、よりよき運命を創っていくのだ*3

私は2017年に流山高校で生徒たちに講演する機会をいただきました。

shacho.beproud.jp

その中で「なぜ勉強するのか?」という問いに対する答えとして「自分の強みをみつけるため」と話ました。自分の得意なことであれば、価値を生み出しやすく、それが社会のためになると考えたからです。

私は本を読んだり、何かを学ぶとき、「自分が学び進歩することで、社会も進歩する(学ばなければ、社会の進歩が遅れる)」とあえて大きく考えるようにしています。この考え方は、自分のモチベーション(使命感)を高めるのを実感しています。

学びは、人生を充実させ幸福感につながる

学生時代に勉強への抵抗感を感じたことが原因で、社会人になった後に学びをやめてしまう人もいます。確かに、プライベートな時間を楽しく過ごしたいという願望は理解できます。しかし自分の人生を充実させるために、それだけで十分でしょうか。冒頭で述べたように「学びを通じて成長し、自分自身を創ること」は、人間の本質的かつ根源的な欲求と言えます。

この根源的な欲求を満たすためにも、学び続けることは自分を幸せにする道です。

加えて、その学びが仕事や社会に役立つと、それによって得られる喜びも大きいものです。

学びの他の効果としては、自分に興味のあるジャンルであれば自己目的的に学ぶこと自体が楽しい、学ぶことで知識欲が満たされる、知識が増えることで世の中の事象が解像度高く見えて生活や仕事に役立つ、などが挙げられます。

このように「学び」には、人生を充実させ、幸福感をもたらす力があります。

自分の人生を充実させるためにも、学び続けることを心掛けたいと思います。

*1:日本の易学者、哲学者、思想家。金鶏学院の開学、国維会、師友会の創立など、日本主義の立場から保守派の長老として戦前戦後に亘って活躍した。 (Wikipedia)

*2:成徳は徳を高め、大成させること。達材は能力を練磨し、上達させること。江戸時代の長州藩の藩校「明倫館」の学風とされる

*3:「人生の法則(致知出版)」P.199