西武ライオンズの1982年、1983年から始まった西武ライオンズの黄金時代。
まだ清原、秋山、渡辺久、辻といった選手はいなく、田淵幸一、太田卓二、山崎裕之、石毛宏典、東尾修、松沼博久、松沼雅之といったメンバーが主力であった。
その黄金時代を迎える以前の興味深い話が、「Numberプラス Baseball Our Field of Delights」(1999年発刊)に掲載されていた。
西武ライオンズになったのは、1979年。クラウンライターからの球団買収である。
監督には、根本陸夫監督が就任。
坂井球団代表と2人3脚でのチームづくりがはじまった。
根本監督は人脈を生かしてトレードやドラフトで選手を続々と獲得した。
トレードでは、阪神からは、田淵幸一、古沢憲司、ロッテからは、山崎裕之、野村克也。ドラフトでは、森繁和、松沼博久などを獲得。
しかし、獲得したものの根本監督は、野球に関しても特別指示を出さず、自由にプレーさせたという。
「チームの中心を張ってる連中は、何かいいものを持っている。それがうまくかみ合えばいい」
おまけに、罰金もなし、ミーティングもなし、サイン無し、門限無し。
全てが選手任せだったという。
初年度の1979年は開幕から2引き分けを挟み12連敗。前期最下位、後期5位。
1980年は前期最下位、後期は4位。
1981年前期は優勝を争うも2位。
このとき我慢できなくなった山崎裕之が、球団代表の坂井保之氏のもとを訪れて直訴したという。
「ボクたちは勝てる野球をやりたいのです。このままでは勝てません」
その話を聞いた根本監督は、嬉しそうに言った。
「へえーっ。選手がね。勝ちたいと言ってるのかね。いいじゃないか。いい頃合いが来たのだから、今度は勝てる監督に席を譲ることにしようじゃないか」
そして、翌年の1982年、後任として広岡達朗氏を指名。
広岡監督の野球は「管理野球」と言われた。
健康管理面、宿舎の過ごし方までに指導が入った。
素直に従う選手、反発心を持つ選手、それぞれいたという。
しかし、勝利に飢えた選手たちは、それらをパワーに変え、1982年の前期を優勝。
前年度優勝の日本ハムファイターズをプレーオフで破り(江夏豊をバント攻撃で攻略)、パリーグを制覇。日本シリーズでも中日ドラゴンズを破り日本一に輝いたのである。
結果の出ないチームを長い目で見た球団。
選手に勝ちたいという気持ちが芽生えるまで待った根本監督。
この勝利へのモチベーションを原動力として、西武の黄金時代が始まった。
森監督が退任する1994年までリーグ優勝は、13年間で11回、日本一は8回。
82、83、85、86、87、88、90、91、92、93、94
選手を指導することで、ひょっとしたら1年は優勝できるかもしれない。
しかし、1980年代の西武のように黄金時代を築くのは難しいのではないだろうか。
短期的な成功ではなく、黄金時代をつくるためのチーム作りとは、選手の獲得と、チームの長期的に持続するモチベーションづくりが両輪であることを学べる好例である。
黄金時代の西武ライオンズからは、組織づくりにおいて学べることは数多くありそうである。
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