ビープラウド社長のブログ

株式会社ビープラウドの社長が、日々の思いなどを綴っていきます。

実現しなかった師弟関係

清原和博PL学園から1986年に西武ライオンズ入団。

1年目の2打席目で初本塁打、オールスターでも本塁打を打つなど、新人記録の31本塁打。打率.301。

その年の広島との日本シリーズでは4番に座り日本一。そのあとも、西武黄金時代の4番として君臨する。

清原が4番に座って以来、チームは86、87、88、90、91、92、93、94年と優勝。

しかし、清原は、86年の新人王以来タイトルを獲得していなかった。

オールスター、日本シリーズなどの大舞台では無類の勝負強さを発揮するのに、シーズンはタイトルなく「無冠の帝王」と呼ばれ、18歳で脚光を浴びたスーパースター候補も29歳を迎えていた。

しかし、そのバッティングを、開花させようと画策していた男がいた。

94年〜96年に巨人に在籍した落合博満である。

落合は、球団社長、長島監督に清原の獲得を進言していたという(「不敗人生」巨人を退団したときに出版した書籍より)。

いろいろと周りの話をきいてみると、(清原は)いい時と悪い時の差が大きい。今日は駄目だとなると、まるっきり駄目なんだって。それがもろに現れるらしい。
〜中略
(巨人のように毎試合満員になるチームに入れば)短期決戦で出せる力をシーズンを通して持続だせるんじゃないか。そういう風に環境を変えてやらなきゃ、あの子はこのままで終わってしまうだろう。
〜中略
それと、同じチームにいて俺がいつも近いところで見ていれば、いろんなことをアドバイスできるだろう。俺が43歳、松井(秀樹)が22歳。その差は21歳もあるでしょう。そこで29歳の清原が入れば、俺と松井の間にワンクッション置けるわけじゃない。で、四番とは何ぞや、プロ野球とは何ぞやということを俺が清原に教え、それを清原が松井に伝え・・・。今後のプロ野球界のことを考えたら、そういうことが必要だろう。そう思っていたんだけれどね。

96年のオフ、清原はFA宣言し、97年から巨人に入団。

一方の落合は、96年のシーズン中から始まっていたフロントの「落合外し」より退団。97年に日本ハムに入団する運びとなった。

結局、プロ野球を代表する右打者の師弟コンビは誕生しなかった。

巨人入団後の清原の活躍は、どうであったか。

1年目の不振、大味な打撃、肉体改造、度重なるケガにより、ファンの期待値に遠く及ばぬまま、オリックスに移籍したのである。

人は人との出会いをきっかけに、人生を変えていく。

清原が、落合と出会っていたとしたら、どのような変化をみせただろうか。一野球ファンとして今でも残念におもう。

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